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院長生い立ち

私は1971年7月5日山梨県都留市で生まれました。

 

見渡す限り山と田んぼ、夜は満点の星空という自然いっぱいの中、口うるさい姉と生意気な弟の真ん中で元気に育ちました。

 

父親は造船業のエンジニアの仕事をしており、性格は常にキッチリとして誰が見ても口数の少ない堅物という感じでした。

 

母親の職業は教師で、性格は優しく多くの学生が家に悩み事の相談や色々な報告にきていました。
両親共働きの為、私たち姉弟は子供の足で40分以上かかる母親の実家で昼間は祖母に面倒をみてもらっていました。祖母は医師であり坊守(お坊さんの妻)であり、かなり多忙な人でした。 歯科医師を目指した要因の一つとして白衣で走り回って患者さんからいつも感謝されている白衣姿の祖母への憧れは大きいと思います。

 

大型船のエンジニアだった父は仕事柄一年の大半は海外行っていました。手紙を送っても港に届くため港に着いてからこちらの状況を知ることになっていました。
私が6歳の頃、車にはねられ足の骨折をし入院したときも退院してギブスが取れるまでそのことを知ることが出来なかったとのことでした。入院中母親はただでさえ忙しく時間の無い中、仕事が終わってから毎日病院に来てくれました、幼いながら申し訳ないと感じていたことを覚えています。
この事もあり父親は造船からロケットのエンジニアに転職?したそうです。ご存知の方も多いと思いますがあのロケットが打ち上げられる種子島です。ですので転職しても家へはあまり帰ってこられませんでした。
ただ年一度だけ家族旅行で母親の親戚のいる千葉の九十九里浜へ連れていって貰ったのは、すごく楽しい思い出です。

 

さて、これから書くことは私にとってはマイナスのことなのですが中学に入学し思春期の私は何に対しても反抗的になり教科書を一切開かない学生時代を送りました。
県立の高校にギリギリの成績で入学した後も変わらず最下位を歩き続けておりました。
気力の無い人間はある意味では強いですね。将来の事など考えたこともありませんでしたし、大袈裟かもしれませんが生きていて「面白くない」では無くて「全てが詰まらない。」これ以上落ちることのない安心感。

その平穏な日が一変したのは高校二年生になって直ぐのことでした。私の担任になったT先生との出会いです。ホームルームの時間にみんなの前で私を名指しして泣くのです。
ビックリしました。困惑しました。顔が真っ赤になりました。
「タツル(私の名前)は今のままで良いの?何故やる気を出さないの?(母が同じ高校で教師をやっていたのですが)お母さんが可哀そう」等々毎朝の日課のように言われ続けました。
嫌なので勉強をするようになりました。その甲斐があり成績はすぐ学年の半分以内になり満足してたのですが、T先生は止まりません。
「何故諦めるの?出来る限り頑張らないとダメだ。まだまだ出来るはずだ。こんな成績で将来どうするの?」
そこで決心しました。諦めたのかもしれませんが。
「T先生がホームルームの泣きながらの小言を言わなくなるまで成績を上げよう」順位は一桁になりました。今度はまたまたT先生泣くのです。「やれば出来るじゃないの。もっと頑張ろうね。将来はどうしたいの?」
結局一年間泣かれました。クラスは私一人じゃないんですけど。

二年生からは陸上部でも活躍しました。頑張れる環境になると人間は凄いスピードで進化できるのだとこのとき痛感しました。

 

三年生になっても部活動、勉強は頑張りました。大学も学年で一番最初に入学が決まりました。T先生が「タツル、出来たじゃん。」泣いてくれました。私も泣きました。

たった一年の出来事です。たった一人の人との出会いです。人生で考えると一瞬の出来事ですが、私の一生を変えてくれた一年でした。

神奈川歯科大学に入り今度は水泳部に入部しました。サークルではありません。バリバリの縦社会の部活です。この水泳部に入ったことで私の歯科医師人生が大きく変わります。水泳部に入っていなければやはり今の私は無かったと思っています。

歯科医師になりここで水泳部の2年先輩のO先生の開業されている千葉県君津市にあるO歯科医院で勤務をさせてもらえることになりました。もちろん私にはまったく土地勘のない場所です。働き出して間もないときに院長が未熟な私に「絶対に手は抜くな」と言ってくれたことがあります。その時は「手なんか抜かないし、一生懸命やってるし」と、心の中では思いました。院長は歯科医師になったばかりで知識も技術もない私に多くのことを教えてくれました。が、その「絶対に手は抜くな」という言葉は今でもふとした時に思い出されます。歯科医師になって20年以上経った今でも私の教訓として心に刻まれています。

 

2004年4月30日でO歯科医院を退職し翌日5月1日から居ぬき物件であるMFデンタルクリニックで開業しました。まだ生まれたばかりの乳飲み子を連れて妻が私の仕事中に土地勘も全くない千葉市に何度も電車で行き住むところを決めてくれていました。引っ越し業者も手配して住むことのできる状態までもっていってくれていました。大隅歯科医院での勤務を終え私はそのまま千葉市のアパートへ車で向かいました。私自身全く分からない街に到着し、妻から渡されていた住所に到着すると妻と子供が待っていてくれました。

新天地、開業と期待と不安が入り乱れていた私の頭の中でその時フワッと「嬉しい気持ち」でいっぱいになりました。明日からここMFデンタルクリニックで頑張る気力が沸き上がりました。

 

居ぬき物件であり以前の先生もあまり診療されていなかったので、まずの仕事は大掃除から。院内は古いものばかりですし汚れやホコリがたまっていたので私ともう一人のスタッフでずっと掃除をしていました。

月日がたち徐々に認知してもらい患者さんも増えてきました。おかげさまで多くの患者さんが来られる歯科医院になりました。そこで私は満足してしまいました。やはり私のもともとの性格なのでしょう。

開業してから9年ほど経ったある日突然「まだまだできることはいっぱいある。にもかかわらず私は何も出来ていない」と気づきました。いてもたってもいられずO先生に「海外の歯科医師の知り合いを紹介してください」と、訳のわからない電話をしました。院長の答えは「どうしたの?保田先生は今患者さんも多く来てくれる医院を作って頑張っているのだから今のままで良いんだよ。人にはそれぞれ分相応っていうのがあるんだよ。」と優しく励ましてくれました。

それでも自分の中のモヤモヤが取れず長野県で大きな歯科医院の理事長をされている水泳部の3っつ上の先輩のA先生にすぐ連絡をしました。やはり「海外の歯科医師の知り合いはいませんか?」と(笑)。当時海外の治療がとてつもなく素晴らしいものと思い込んでいたのだと思います。

そこで悩んでいることに気づいたA先生が「大分悩んでいるようだね?今度僕の講演するセミナーに来なよ!」と言っていただきました。その日に申し込んでセミナーの前日、話をする時間を作ってくれました。私の話を聞いた後、約200個(少し大げさかもしれません)の私が出来ていない“やらなければいけないこと”を提示してくれました。簡単に言うと山ほどのダメ出しを食らったのです。

例えばホームページを作る。経営のセミナーに参加する等々。

ホームページは集患のためのもの。と思い込んでいた私に「来てくれている患者さんが見るものだ。どんな先生でどんな治療を患者さん自身が受けているのか?」と、教えてくれました。目から鱗でした。

もちろん次の日のセミナーをしっかり受けてお礼を言って帰ってきました。それから毎日課題の200をクリアするために取り組みました。ほぼ半年ぐらいはかかったと思います。

 

その長野県宮田村という小さな村の大きな歯科医院に何度もスタッフを誘い見学に行かせていただきました。見たもの聞いた事をできるだけ取り入れてMFデンタルクリニックに落とし込んできました。200個の課題は終えて更なる知識と技術を研鑽している途中です。いまでもアイドルの追っかけになったようにA先生を尊敬しセミナーにも参加しております。

と、ここでお気づきの方もいるのではないでしょうか?

途中であきらめて満足してしまっていた状態がありました。高校生の時の学年で半分に入ったときです。

全く同じことをしているな…と自分で大反省をしました。

人の一生には必ずその時に絶対に必要な人と巡り合うようになっています。悩んだ時、弱っているときいつでもどこでも起こることがとても必要で大切なのだと改めて思わされます。私も人に与えられる存在になりたいと思っております。

渋沢栄一の名言で『四十、五十は洟垂れ小僧、六十、七十は働き盛り、九十になって迎えが来たら百まで待てと追い返せ』

人間は弱くて、忘れてしまう生き物です。「面倒だから、明日やろう。まとめて後でやろう。このぐらい頑張れば人は認めてくれる」誰もが持っている甘えと弱さだと思います。

私は他の人よりだいぶ弱い気がしますが、自分自身が弱音を吐いていると気づいた時は今までのことを思い出します。50歳を過ぎてもまだまだ鼻たれ小僧です。だからこそ無我夢中で生きている以上は頑張って何にでも挑戦して行きたいと考えております。

人生順風満帆で今に至る訳ではありません。むしろつまずいて、悩んで苦しんでいるときのほうが多いのかもしれません。ですが多くの方々に助けられ支えられながらこれからも日々邁進して行こうと切に願っております。